【NPO法人を運営して感じること】障害者が地域で生きる?? #1

-それに向けた色々なこと-

皆さんこんにちは!そして初めまして。川﨑良太と申します。
生まれは曽於市大隅町、田畑に囲まれた自然豊かな環境で会社員の父、専業主婦の母(なぜ専業なのかは後に詳述)と姉、弟の間に長男として誕生。

一般家庭より少しお金はありませんでしたが、特別貧しいということはなく家族旅行や誕生日にはケーキが食べられるくらいの中で育ちました。


しかし一つだけ違うことがありました。それは私が【障害者】であるということ。
私の障害は脊髄性筋萎縮症という神経難病の一つで進行するにつれて徐々に筋力が低下していく症状がある。イメージでいうと本来子どもが歩き始める1歳前後になっても”つかまり立ち”までしかできず、疑問に思った母親が南九州病院へ連れて行ったところ「この子は一生歩けないよ」とお医者さんに言われたらしい。

今聞いても、もう少しオブラートに包めなかったものかと苦笑せざる負えないが、この一言が家族(特に母親)に現実を教え【障害者として生きる】私のスタート地点になったのかもしれない。かくして私川﨑良太は生後一年にして人生のどん底からスタート、残りは上がるしかない状況に置かれたのである。

さて、今回の記事タイトルは【NPO法人を運営して感じること】と題してお届けしているわけだが、本題にたどり着く前にもう少し私の人生について触れておきたい(聞いてほしい)


障害があることを認められた私はそのまま地元に帰り、家族と共に生活することとなる。身体が2歳3歳と大きくなるにつれても無論歩けるようにはならない。そのため外出時は母親に抱っこされるかたちになるのだが、ある日クリーニング屋のお客さんが「大きいのに抱っこされて恥ずかしいねー」と笑いながら母親に言ったようで当時の母親の日記には、酷く傷ついた、というようなことが書いてあった。

人の無邪気さや冗談というのは思わぬ方向で刃になることがある。気を付けなくてはならないと自戒を込めて思う。地域からの目や、親戚からの必要以上な同情も受けながら私はすくすくと育ち保育園に通うこととなった。保育園で通う中で不思議だったのは、私だけなぜか「職員室で寝かされる時間」があるのだ。

友達は外で楽しく遊んでいるのになぜ自分だけ?これが最初に感じた違和感であった。そしてこの違和感はさらに大きくなって私に襲い掛かってきた。それは小学校入学のころになってからだ。

私は当然友達と同じ小学校に上がるものだと思っていたが実はそうではないようで、障害がある私は養護学校というところに通うことが決まりになっているようであった。
ある日母親に「良太は小学校どうするの?」と聞かれ「友達と同じとこに行くー」と”無邪気”に答えていた。今度はこの無邪気さが母親に勇気を与えたようである。かくして川﨑良太、社会の壁と向き合う第一ステージの始まりである。

障害があっても車椅子に乗っていても、友達と同じように小学校へ行って、一緒に勉強するのは当たり前だと思っていた。でも現実は違うらしい。私を他のみんなと同じように“普通小学校”へ通わせるためにいくつかのハードルを越えねばならなかった。

その一つは分離教育との戦いである。健常児は普通教育、障害児は養護学校(現:特別支援学校)に通うことが定説とされそれに逆らうとなると何某かの理由を用意しなければならないのである。

この文章をお読みになられている方は、この理由を用意しなければならない、の部分に違和感を持ってくださっていると思う。それは端的に考えても地域で同じように生まれ育った子供同士なのに就学期を境に別世界へと連れていかれることへの違和感である。

私は特別支援学校を否定しているわけではない。現に高校は特別支援学校の高等部へ通って青春を謳歌した(興味がある方はそちらもチェック)経験がある。然しながら、障害があるという理由だけで、一緒に遊んでいた友達と突然離れ離れになるのである。

引っ越しをしたわけでもないのに。私は当初からこの現実に違和感があったわけではないが、時間が経つにつれて事の重大さに気づかされていった。なんと、成人してからあらゆる人たちに「これまで障害者と接したことありますか?」とたずねると、ほとんどが「ないです」とか「テレビでみたことあります」といった反応である。

一見普通の返答に思えてしまうのが恐ろしいとこなのだが、小学校時代から分離され少なくとも14年ほど普通に生きていたら障害者と出会わないということである。これが障害者差別や無理解の根底にあることは言うまでもない。会わないから知らない、話したことがないからわからないのである。これは今日本に住んでいる障害者が住み辛いと感じている大きな原因の一つではないだろうか。


さて、話を戻そう。私は普通小学校に行くためにこえなければならないハードルその1は学校との話し合いである。

親や私が地元の普通小学校に通うと決めた日から、幾度となく話し合いの場は設けられた。そこには、校長先生教頭先生、父母、そして私である。話し合いの趣旨はなぜ養護学校ではなく普通小学校に、そしてなぜこの小学校なのかということであった。

母は私を地域のみんなと同様に通わせたいという熱意と、私の無邪気な希望によりその思いを必死に伝えていた。その思いが伝わったのか。私はある日一人で教育委員会の人との面談に連れていかれた。その担当の方は私に面と向かってこういうのである「良太君はなぜ、この小学校に通いたいの?」と。私は間髪入れずにその質問に答える。「ひろとくんと同じ学校に通いたいからー!」ひろと君とは家が近い大の仲良しの友達であった。

無邪気なこの答えに担当者は何を思ったのだろう。そして、何と答えていたら私は普通小学校に行けなかったのであろうか。その答えを、今は知るよしもないが小さな子供に対して未来を左右するような質問をしてくること自体に恐怖を覚えるし、やってはいけないことだと思う。

得てして私は普通小学校に通えることになったのだがそこには一つ条件があった。それは【母親が常時付き添うこと】であった。登下校時の送迎、そして移動時の介助、はたまた授業中の見守りもである。このような厳しい条件を掲示され、家族としては同意することしかできず、私は普通の子なら自立の一歩となるはずの小学校入学を常に母親といくはめになったのである。

ここで気を付けなければならない視点は障害者で手がかかるのだから、母親が付き添うのはしょうがないだろうという考え方である。障害者にはこのしょうがないという言葉が大変な曲者なのである。障害があるからしょうがない、できないからしょうがない、と言われ沢山の権利が奪われてきたのである。だがこの時期はそのような権利意識は持ち合わせておらず、いわれるまま、母親は自分の時間をすべて私に注ぐことになるのである。

これは思った以上にしんどいことであった。母親は家事に育児に学校の付き添い、子は子で常時親の目から解放されず、教室の中で担任の目から逃れられても、後ろには母親がいて、迂闊にカンニングもできない状態である(引き出しから漢字ドリルを出して見たかったのに!)と冗談はさておき、実際の問題として子どもの発育には悪影響ははかりしれない。子どもは同年代の子たちと切磋琢磨し、喧嘩したり助け合ったりして人間関係を形成していくものである。そこに親という絶対的な存在が介在してしまったら、子どもは自分らしさが出せないのである。こうやって障害者は”普通の子”歩む道をたどる前にも壁があり、歩み始めたらまた別の困難が待っているという調である。

恨み節を言えばきりがないが障害者の事を知りたいと思って下さる方がいたら是非この「社会の不条理さ」に気づいて共に感じてほしい。

今回の記事でいうと、障害があることで”普通の子”とは別の道を歩まされること。それに伴う家族への負担が生じ、またそれが当たり前のことという風に扱われること。障害者は社会の隅へ隅へ追いやられていくことである。この不条理さを前にあなたがどう感じるかそこに意識を置いて次からの記事を読み進めてもらいたい。また私の学生時代やその後の人生については必要に応じてまた話していきたい。ということで第一回目終了です。

第二回はコチラから

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