全ての命に「ようこそ」と言える社会へ【前編】

それぞれが多様性を認め合い、支え合う事が求められている今の社会で、どれだけの人が互いの違いや想いを知ることに関心があるのだろう。

合理的配慮と言う名のもとにあまりにも分けられ続けている現在の教育制度、あまりにも互いに触れ合うことのない社会でどうして関心を寄せることができるというのだろう。

一体合理的配慮とはどういった配慮の事を言うのだろうか。

ともすれば大多数の人たちがその存在すら違いすら知らないまま大人になり、どうやって接すれば?どうやって関わり会えば?どうやって支え会えば?これまでずっと繰り返されてきたこの問いにどうやって自分なりの答えを探り出せるというのだろう。

そして繰り返されてきたそれらの問いに対する答えは誰の中に、どこにあるというのだろう。

さて、ここからはこの想いに至るまでの我が家がたどってきた経緯を少し。

我が家の長男徹也は重度知的障害(自閉傾向)療育手帳Ⓐ判定、現在23歳、発語無し、生活全般において介助が必要。

出産時元気な産声をあげる事もなく呼吸停止の状態で産まれてきた息子に障害があることを知ったのはそれから約2ヶ月後のことだった。

音への反応がないことから聴覚障害(現在はある程度聞こえている事がわかっている)発達がかなり遅れている事から知的障害。さらには生まれつきの疾患もあり入院や手術を繰り返す日々。次々と告げられていく疾患や障害名を前にして何をどうしたらいいのかも全くわからず毎日息子の顔を見ては「辛い思いばかりさせてごめんね」と涙があふれてくるばかりの日々。

この先に笑いあえる幸せな未来なんてあるのだろうか。

何も見えないしもう何も見たくない。この先に笑いあえる幸せな未来なんてあるのだろうか。何も見えないしもう何も見たくない。例えるなら灯りのない真っ暗なトンネルの中に私と息子だけがポツンと取り残されているような感覚だった。なぜ私の息子なの?妊娠中に何か原因が?どんなに必死に考えてもたくさんの本を開いても読み尽くしても答えなんてどこにも無いと頭ではわかっているのに当時の私はそうすることでしか自分を保てなかったのかもしれない。

ある日ふと何もかもが嫌になり息子を抱いてフラフラと外へ。
どうやったらこの子と死ねるのだろう。そんなことを思いながら。

その時の私のただならぬ表情や様子に長女は何かを感じたのか、激しく泣きじゃくりながら「ママ行かないで!私を置いて行かないで!」と必死に追いかけてきた。ハッと気づくと目の前には涙と鼻水でぐしょぐしょの顔をした娘の姿があった。私は何を?このままじゃ娘が家族が壊れてしまう。

この出来事をきっかけにして少しずつ自分たちの周りにいてくれる人たち支えてくれる人たちに目が向くように。そして何よりも愛する家族とともにこれからの人生をどんな風に生きていきたいのか。過去は変えられなくても未来なら自分たちで作り上げていく事が出来る。

今出来る事があるなら何でもやってみよう。それからは救いようがない程ぐちゃぐちゃだった部屋を少しずつまともなレベルに戻しながら娘と2人で過ごす時間を持ったり出来なくなっていた事、忘れかけていた時間を取り戻していった。

と同時に日々どうすればこの子の持つ能力を引き出し伸ばす事が出来るのか、と必死に情報集めつつ様々な療育施設、聾学校、リハビリ、OT、STと時間と体力の許す限り通い続けた。

何事も全力で突き進み気づくといつも限界を超えて頑張り過ぎる性格。

この頃数年前から痴呆の病気で解除が必要な状態となっていた母の介護等も加わり少しずつ立ち上がりつつあった心と体がまたもバランスを崩し始めていた。

そんな私の様子を見ていた主人がある日「もうそんなにがんばらなくてもこの子は成長していく。いちど離れる時間を持ってみたらどうだろう?親が元気でいることが1番だよ」と言った。

それから夫婦で毎晩のように話し合い小学校に上がるまでの残された1年間を保育所へ通わせてみようと決めた。

(次回後編へ続く)
後編はコチラから

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