【NPO法人を運営して感じること】NPO法人の代表になった経緯 #5

NPO法人の代表になった経緯④

自由を手に入れた川崎良太、しかしその自由が苦しさに変わっていく。今回はこのシリーズ最後になります。それではスタート!自由が苦しみに変わる、それはどういったことかと言うと、要するに・・・暇ということです。

第四回目をまだ読んでない方はコチラから

暇な時間というのは人にとって大変な苦痛であります、当時やっていた電動車椅子サッカー以外には特に趣味といった趣味もなく家事にも慣れヘルパーさんともうまくいくようになっていた私は、とにかく暇を持て余していた。若くてエネルギーが有り余っている時期なのに夕方散歩などしていた。散歩をしながら河川敷を眺めていると再びこの思いが頭をよぎった、このままでいいのだろうか、自問自答したりヘルパーさんに話しかけたり色々と考えた結果、てくてくで活動をしていこうと思うようになった。週に2度ほど電車で出かけてくてくの事務所で・・・することがなかった。


代表事務局長障害を持った先輩方は何か忙しそうにしているのに自分にできることはあまりないように思えた。そんな中でも全国から来る活動記録に目を通したり様々な障害者運動のビデオを見るうちに世の中の不条理さに気づき怒りが湧いてくるようになった。自分の辿ってきた人生が様々な不平等な上で成り立ってきたという事を感じ取った時にその怒りが確信へと変わった。どんな形であれ障害者運動を続け一人でも多くの障害者が当たり前に生きていけるように活動していこうと心に誓った。


こうしててくてく通うようになるわけだが、その中で一つも出会いがあった。
それは発展途上国から日本に自立生活運動を学びに来る制度を使ってきた、ネパールの留学生アンジャナとの出会いだ。日本の当時の福祉制度は多くの先輩方の力によって発展してきており、地域で生活するということが認められこそせずとも 方法を知り頑張れば実現できるといったような状態であった。しかしアンジャナが住むネパールという国では介助制度はなく、障害者は家に引きこもっているというような状態であった。そんな国を変えよう、仲間を助けようその思いを一身に背負い異国の地で頑張るアンジャナの姿を見ていたら、自分は恵まれているしもっともっと頑張らないといけないとそう思った。

こうした思いをもち、また日本の先輩方、介助制度を整えたり、差別解消法を制定させたり、バリアフリー法をより良いものにしようと奮闘したりする姿を幸いにも近くで見ることができ世の中が変わるのは待っていても変わるものではないと感じることができた。そしてそれに気づいたものは何がしかの行動をしていかないといけないと強く感じている、そう思い活動していた矢先てくてくの代表であった吐合が癌に犯されていることが分かった。


鹿児島の自立生活運動の先駆者であり、常に強烈なリーダーシップを発揮しみんなを引っ張っていた存在であった人が弱っていく姿は、大変辛いものであった。そして吐合に言われた一言があった、てくてくの代表をやってくれないかという一言であった。なんでも安請け合いしてしまう私であったが、、さすがにこの一言はあまりに衝撃的で受け入れるまで時間がかかった。しかし人間は覚悟を決めて前に進まないと成長はないと思った。

なぜ自分が選ばれたのかその理由については正直今になっても分かっていない、あえて想像するならばこれまでの文章にもちりばめられているように、社会への怒りがありそれを行動に変えようと思っていたからかもしれないし、そうであると嬉しいなと思う。長々と書いてきたが私がてくてくの代表となった経緯は以上となる。

代表になったからといって華々しい人生が待ち受けているかと言うとそうではない、毎日毎日悩みが絶えない、けれどもそうやって悩むこと行動していくことが今も不自由な状態で、施設や病院で暮らしている障害者を救うためのことであるとするならば、私はいくらでも力を出せると思う。今後はその怒りを共有し、共に世界を変えていける当事者や健常者スタッフを増やしていくこと。
派手なことはしなくとも当たり前の権利を勝ち取れるように歩んでいきたいと思っている。

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