【NPO法人を運営して感じること】NPO法人の代表になった経緯 #3

NPO法人の代表になった経緯②

前回は私がてくてくに出会った経緯、そして自立を決意したところまでお届けしました。

第二回目をまだ読んでない方はコチラから


今回はその続きからになります。自立を心に決めその後もてくてくと話をしていた私の携帯電話に着信があった。当時ガラケーの流行りであった背面液晶に表示されたのは【○○先生】の文字。そう進路指導担当の養護学校の先生だった

何の用事だろうと訝し気に電話に出ると開口一番「あなた何やってるの!」とい怒り心頭。私は大いに驚き狼狽えながら「自立の練習とか、です」と答える。先生は怒りも収まらぬまま「あなたは就職が決まってるのだから余計なことしちゃだめでしょ」と続けた。そう、何を隠そう、自立を心に決めた青年川﨑良太氏はなんと就職し、その会社の寮に入ることが決まっていたのである。

それはせっかく斡旋したり心を砕いてくれた先生からしたら怒るのも無理はない。ましてや重度障害者が就職できるなんて当時も今も難しい状況である。そうは思っていても突然怒られたら気持ちよくないのも事実である。

不服と思いながら、わたしはここでてくてくと一旦距離を置いてしまうのである。(えー!またテーマからずれるやん)それは先生を裏切れないというのも一つだし、もう一つ大きな理由があった。社会の中で働いて経済的に自立したいという思いだ。確かに我慢しないこと、自由を得ることは私にとって大きな翼に見えた。しかし同時にその翼を手に入れてしまうのは甘えなのじゃないか。まだ若いのに甘えてしまってよいのだろうか?社会のお荷物になるより少しでも貢献したい。そして何より自分で稼いだお金で自分の生活を成り立たせて行きたいご飯を食べたいそう強く思っていた。そんな思いがあったから私は自立生活ではなく就職という道を選んだ。

ではこの就職、重度の障害がある私がどういった仕事をしていたかという説明をしたいと思う。私は障害者枠で特別養護老人ホーム等を併設する大規模な社会福祉法人のデイサービスのスタッフとなった。
そこには1日40名を超える高齢者の方が日中の時間を過ごすために送迎をして施設の中で過ごす、そのお世話をするという仕事だ。お世話と言っても体が動かない私に何ができるかと思った人もいるだろう。私自身も迷いの中で始めた仕事であった。仕事内容としては朝、他の職員が迎えに入っている際、テーブルを整えたりお出迎えの準備をする。

そして皆さん到着した後、朝礼が終わりそれぞれの方がお風呂やマッサージチェアで休まれたり、会話を楽しまれたりするところを巡回し暇そうな利用者さんに対しお話し相手をしたりまた全体の見守りのようなことをしていた。そして昼になるとレクリエーション担当としてカラオケの司会をしたり色塗りの手伝いをしたりお散歩に一緒に入ったりといったようなことをしていた。

そのおかげもあって昭和を彩る歌謡曲は一通り歌えるほど覚えてしまった。そして利用者さんが帰られた後は事務仕事が待っている。その事務仕事を終え夕方6時に終わりと言ったような具合だ。障害があるけれども他の人と変わらないように仕事を全うしているというところにやりがいや生きがいを感じていたし、ともすれば、私は他の障害者とは違うと言ったようなおごりもあったのかもしれない。 仕事は順調であったが2年経たないうちに身体に異変が生じるようになってきた。どうにも疲れが取れない、その理由は何だろう、自分では分かっていた。

理由はヘルパーさんの時間が足りないこと、それだけのことだった。当時どういった生活をしていたか、起床介助に30分、夜入浴介助に60分、就寝前に30分、そして夜中の体位交換に30分。というタイムスケジュールでヘルパーさんに来て頂いて身の回りのことをしていた。ここでお気づきなのはしっかりとこの記事を全て読んでいるあなただけ。そう僕が一番困っているのはトイレの問題なのだ、この頃ヘルパーさんは決まった時間しか来てくれなかったから、私はトイレを自由にすることができなかった。

どのようにしていたかと言うと職場の先輩や同僚にトイレ介助をお願いしていた。これは一見簡単なようでとても難しい作業である。まず手の空いている人を見つける、そして申し訳なさそうに今大丈夫ですかと確認を取る、そしてさらに申し訳なさそうにトイレお願いしたいんですがいいですかとお願いをする。 いつもお願いをする優しい先輩がいない、厳しそうな人しかいない、その時どうするか・・・

当時の川崎良太氏は我慢を選択した。我慢には慣れていたからできると思っていたがある日寮の廊下で失禁をしてしまった。 それも一回ではなく2回3回と失禁をしてしまったのである。この時の恥ずかしかった気持ち、何とも言えない気持ちは今でも覚えている。色々なことが制約されていた病棟の生活でもトイレを失敗することはなかった、なのになぜ今僕はトイレを失敗しているのであろう。そう自問する日が続いた。

そして確かにお金を稼ぎ自分でご飯を食べることは出来ていたが、仕事以外の時間は疲れ果てて寝ているかぼーっとしているかというような日々だった。本当にこのままでいいんだろうか、自分がしている仕事は社会の役に立っているのだろうか、ましてや自分のためになっているのだろうか、そのように考えるようになっていた。


そしてとどめを刺されたのはこの出来事だった。夜中の体位交換にヘルパーが行くと次の日の仕事に差し支えるためにその時間の派遣を辞めたいと言われたことだった。この代わりに同施設内の特別養護老人ホームの夜勤をしているスタッフがコールを押せばきます、と提案され実際にそれを行ったが同じ職場のほとんど先輩方である、体がいくら痛いからって安易にコールを押すわけにはいかず私は夜中体位交換をせずにそのまま寝る、寝たのか起きているのかわからない状態を過ごしていた。

どんなに志が高くても体が続かないと人はダメになるそう思わされた出来事だった。 仕事を辞めよう、そう思った時にふと頭をよぎったのは自立生活のことだった。

自立している先輩方から聞いたこと、まだまだ世の中には自立生活をできていない障害を持った人がたくさんいること、そういった人たちのために自分にできることがあるのではないだろうかそう思うようになった。そしてきっぱりと仕事を辞めた、辞めて実家に帰ったのである。希望は持ちつつも初めて人生に行き詰まったのはこの時だったのかもしれない。実家に帰った私は家族からの介助を受けつつ、てくてくで学ぶようになった。学ぶ内容は重度の障害を持っていても地域で暮らして良いという理念。福祉制度のこと介助者との付き合い方、色々なことを学んだ。


その間にも実家で大便を漏らすということが起きた。どこにいても何をしていてもトイレを失敗するということは人にとって最大の羞恥心がベル場面である。
もうこんなことは二度としたくないと思い自立への速度を強めていった。③に続く。

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